日本とBC州・総領事館の歴史


1877年-1907年
1886年、バンクーバーにカナダ太平洋鉄道が開通、更に翌年のバンクーバー・横浜間の太平洋航路就航を契機として日加貿易が開始されると共にブリティッシュ・コロンビア州へ入ってくる日系移民の数も増加、バンクーバーの領事館開設を促すきっかけとなった。
1889年6月22日、杉村濬(すぎむら・ふかし)領事を長として開設された初代在バンクーバー日本国領事館(現在総領事館)は、ハウ通りの一角、現在のメトポリタン・ホテルに位置していた。当時領事館は、カナダに設置された日本政府機関の第一号であった。
領事館開設と共に日加間の貿易が本格的に開始された。当時、緑茶と絹が日本からの主要な輸入品であった。特に絹貿易はカナダ太平洋鉄道の恩恵を受け、バンクーバーで陸揚げされた絹は、最終的に同鉄道でニューヨークまで運ばれ販売用に加工された。 温州ミカンの輸入も長い歴史を誇り、1891年に最初に日本から出荷された温州ミカンがバンクーバーに陸揚げされた。一世紀以上を経た現在、温州ミカンはクリスマス・シーズンの到来を告げる風物となっている。
カナダからの輸出品は木材、石炭、小麦及び海産物に代表され、それらの輸出量は、1900年から1910年の間に10倍に増加した。それらの産物は現在でも日本に対するカナダの主要な輸出品となっている。
日本人によるカナダ移住は領事館開設から12年遡る1877年、永野万蔵という名の19歳の若者が英国船に乗船、ニューウェストミンスターへ上陸したのが第一号とされるが、公式なカナダ移住は横浜・バンクーバー間の定期航路が就航した1887年に開始された。定期航路就航後、太平洋を渡る日本人の数も漸次増加していった。
しかし、大部分の移住希望者が米国への移住を希望していたため、バンクーバーの日系移住者数は20世紀に入るまで少数であり、領事館が開設された1889年の時点で僅か200名程度であった。
1907年、米国がハワイ経由の本土転航を厳しく制限するようになると、カナダへの移住者数は飛躍的に増加した。米国が日本人移民入国を制限した翌年、約7,600人もの日本人が米本土への入国を断念してカナダへ押し寄せた。
短期間における日本人移住者の急激な増加によって、東洋人移住者に対する排斥感情が高まり、1907年9月には日系人が集団居住していたパウエル通りの日本人街で襲撃事件が突発するに至った。 |
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